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◎大学発明を支えるリクルート社のアソシエイト 第二回

2.リクルート社にライセンスアソシエイトが誕生

日本における技術移転ビジネスは、歴史が浅い。

広義に「技術移転」と言えば、企業間で締結される実施許諾やクロスライセンスは「技術移転」であり、

財団法人や一部の企業が休眠特許の効率的活用を目指したりしていたが、

「技術移転の仲介業」というビジネスは、日本には根付いているとは言えなかったであろう。

誤解を恐れずに書けば、「技術移転の仲介業」に本格的に参入したのがリクルート社である。

リクルート社は、TLO法の施行直前から活動を開始しており、

活動直後は大学教授個人から発明開示を受けてそのマーケティング活動を中心に行っていた。

現在では、TLOとの契約によってマーケティングを代行するという活動が中心になりつつあるようだ。

前出の「TLOとライセンスアソシエイト」における主人公の一人=山本貴史氏は、

中央大学経済学部で技術移転を専攻した後、リクルート社に入社。

同社のDNA(注3)を埋め込まれつつ、自らのミッションを発見し、

リクルート社にテクノロジーライセンシング・グループ(現在のテクノロジーマネジメントディビジョン)を

98年7月に立ち上げる。

「学生の適材適所」を事業ドメインの一つとしてきたリクルート社の経営陣に対して、

山本氏が「大学の技術移転=知の適材適所」という理由付けを思いついて説得した、

と筆者は解釈している。

彼らは、米国のTLOは7年から10年以上が赤字であるのが一般的というリサーチ結果

(通称「ホッケースティックカーブ」)を目の前にしていた。

     【表2】

それでも、民間企業であるリクルート社は、

7年以上も単年度黒字を達成できないと予測される事業に踏み切ったのである。

「3年単黒(3年目で単年度黒字)」を要求される民間企業において、

ひるまず、粘り強く経営陣を説得した山本氏のパワーを想像して欲しい。

その粘りの源泉はどこにあったのか。

筆者が山本氏と出会ったのは、99年10月。グループ長の山本氏、原氏(現在のディビジョン長)、

杉本氏のたった3人のグループであった。

しかし、当時から3人とも非常に熱く語っていた。(居酒屋でワインボトルが次々と空になっていった。)

筆者は、弁理士になった頃から産学連携や技術移転に興味を持ち続けており、細々と情報収集をしてきた。

しかし、技術移転は難しいことなのだと冷めた人、

データベースやインターネットがこの分野でも革命を起こすと言ってモニタ画面から離れない人、

口先ばかりの怪しい人などにしか出会えなかった。

「技術」は人間と結びついているのであるから、

技術の移転には「人間を動かす情熱」が必要だ、

と自分の拙い経験と情報から感じていた。

そのため、極めて優秀な営業マンがいなければ技術移転は難しいと思っていた。

そうしたことから、全社が精鋭営業マンのようなリクルート社に

技術移転の部署ができたということを非常に嬉しく思い、

活躍や実績への期待も膨らんだ。ようやく本物に出会えた、

との喜びが大きかった。

(なお、もっと客観的な情報については、「TLOとライセンスアソシエイト」第9章を参照してください。)

* 注3
リクルート社がどんな会社であるかについては、多数の書籍がありますが、

「リクルートのナレッジマネージメント」(日経BP社)、

および「四年連続トップ営業マン日記」(高城幸司著 中経出版)を推薦させていただきます。

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