都市圏では、通勤電車の通勤時間帯に電車内でモノを食べるヒトは見掛けません。
特に、誰かが禁止したり、規則が存在するのではないでしょうが、
「マナー」として、暗黙の了解事項として、皆が覚り、行動規範としていることなのでしょう。
皆が覚っていることであれば、あえて法律の条文が存在することもない。
にも関わらず存在する条文は、「確認規定」などと呼ばれます。
では、覚る主体である「皆」とは、誰であり、どのような背景を持つのか?
たまたま同一民族だから、たまたま同じような習慣を繰り返してきたから、
あるいは民族や習慣のことを事前学習したり予想したりすることで、
覚ることができる「マナー」もある。
マナーが維持されないとき、守らないヒトが増えてきたとき、「規則」や「決まり」が登場する。
場合によっては「法律」となる。
国際ルールには、「当たり前」と思えるような確認規定が多い、とか、
外国(企業と)の契約書は分厚い、とか、そんなことを耳にするのですが、
常識、前提条件、習慣などが「同一」ではないから、そうなってしまうのでしょうね。
当たり前と思える条文が存在する理由は、当たり前と思わないヒトや状況に対する
確認であることが多いということです。
(2011年10月作成)