さて、もしも私が「教える立場のみ」に生活の糧を絞ってしまったら、
「守」だけの教え子を可愛がる、というようになってしまうかもしれない、
と想像してます。
自分の立場を守ろうとする心理が働くだろう、と想像できるからです。
「破」の段階になってしまえば、手元から離れてしまうわけですし、
「離」の段階になれば、同じ業界ではライバルになってしまうのですから。
そんな想像を前提とすると、「教員をクビになっても、食べるには困らない」
という現在の立場は、「教える」というポジションとして健全であろう、
と考えるに至るのです。
思い返すと、私の中高時代の恩師は、公務員たる教員としての地位を捨ててしまった方でした。
一方で、その恩師の教員時代を知る私の先輩方の中にも、私の恩師を「師」と仰ぐ方は少なくない。
それは、彼が公務員時代から、自分の身分や立場に執着していなかったからかな、
とも想像します。
「破」や「離」の段階にも達しないまま、永遠の別れとなって7年。
最後にいただいた年賀状にて、
「(早く)私を超えていけ」という趣旨の言葉を頂戴しましたが、
恩師の教育哲学に関しては、「守」さえ身に付けられなかったように思います。
恩師の教えに対しては、いろいろなことが悔やまれますが、
その悔やむ分、精進していきたいと思うのです。
(2017年1月作成)