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◎教える側の立場から「守破離」を考える(2/2)

 さて、もしも私が「教える立場のみ」に生活の糧を絞ってしまったら、
「守」だけの教え子を可愛がる、というようになってしまうかもしれない、
と想像してます。
 自分の立場を守ろうとする心理が働くだろう、と想像できるからです。
「破」の段階になってしまえば、手元から離れてしまうわけですし、
「離」の段階になれば、同じ業界ではライバルになってしまうのですから。

 そんな想像を前提とすると、「教員をクビになっても、食べるには困らない」
という現在の立場は、「教える」というポジションとして健全であろう、
と考えるに至るのです。

 思い返すと、私の中高時代の恩師は、公務員たる教員としての地位を捨ててしまった方でした。
一方で、その恩師の教員時代を知る私の先輩方の中にも、私の恩師を「師」と仰ぐ方は少なくない。
 それは、彼が公務員時代から、自分の身分や立場に執着していなかったからかな、
とも想像します。

 「破」や「離」の段階にも達しないまま、永遠の別れとなって7年。
最後にいただいた年賀状にて、
「(早く)私を超えていけ」という趣旨の言葉を頂戴しましたが、
恩師の教育哲学に関しては、「守」さえ身に付けられなかったように思います。
 恩師の教えに対しては、いろいろなことが悔やまれますが、
その悔やむ分、精進していきたいと思うのです。

   (2017年1月作成)