不登校の子ども(中学生)を
現在進行形で抱えていらっしゃる親御さんと接する機会がありました。
私が考えたのは、以下のようなことです。
高度経済成長を支えるのに、均質な労働力が必要だったため、
戦後日本の教育は、『他人と同じことが言えるようにする』ということが目的だった、
と、教育の世界では言われているようです。
だから、この目的による学校教育になじめない生徒は、排除された・・・
不登校となる生徒もいたが、その責任は本人や親に押しつけられたのでしょうか。
(なじめない、という生徒に対して、クラス、学校は未だに残酷です)
さて、高度経済成長期が終わったので、『他人と違うことが(も)言えるようにする』
という変換をしなければならなかったが、日本は教育の目的の変更を怠り(変更が遅れ)、
未だに、『他人と同じことが言えるようにする』という教育から脱し切れていない、
ということも言われているようです(教壇に立ってみて、そうかな、と思う場面はあります)。
一部では教育の改革が始まっているが、教師も学校も混乱している・・・
オトナがブレていたら、子どももブレる子が出てしまうだろうな、というのが、私の観察です。
ブレた子、その親だけの責任じゃなく、教育を提供しているオトナ達の責任も小さくない。
オトナの一人としての責任を少しでも果たそうという気持ちとして、
冒頭の親御さんに、私がかけてあげられる言葉を探しています。
次に冒頭の親御さんに会う機会があるなら、以下のようなことをお話ししようかな。
デザイン系大学の教員を経験させてもらっている中、
不登校の経験者、セクシャルマイノリティなどの大学生に接する機会があります。
彼らは、そうした経験のない学生よりも、エネルギを感じます、と。
(2017年7月作成)