教育学を専門とする友人が「教育の本質」を物語る事例として、
以下のような話を紹介してくれました。
ファミリーレストランで食事をしている幼児とその両親。
母親が、
ジュース、こぼさないで飲みなさいよ・・・、あー、こぼした!
だめじゃないの!
と叱った。泣き出しそうな幼児。
そこで父親は、
左手でコップのこの辺りを掴む。右手でストローのこの辺を持つ。
と、幼児の手を取って教えた。
ジュースをこぼすな、という抽象的な指示を出し、できなかった幼児を叱る母親。
ジュースをこぼさないという目的をはっきりさせた状態で、具体的な指示を出した父親。
どちらの教え方が適切か、明白ですよね、と。
この話は、現在の私にとって、大変ためになりました。
大学院生に対して、「もっと勉強しなけりゃダメだ!」としかり飛ばす教授の姿に、
何か違和感を覚えた、という最近の出来事も氷解しました。
が、一方で、とても考えさせられています。
(大学での、に限らず、でしょうが)教育とは、
基礎を教え、その基礎に基づいた応用の仕方を教える
という辺りにまで到達する必要があるのでは、と私は考えています。
年齢に応じて、身に付けるべきスキルの種類に応じて、個々人の個性に応じて、・・・
どのくらいの回数、期間、具体的な教えを繰り返したらよいのかは、色々異なる。
ということは分かっています。
しかし、その繰り返しの程度は、なかなか掴めずにいます。
より具体的には、以下のような事例があったからです。
15回の授業の(うちの数回)中で、あれほど繰り返して強調したのに、
試験の解答用紙を読むと、「意匠と商標の区別さえ全く付いていない」
という学生が何人がいた
ということ。これに衝撃を受けてしまいました。
170名を超える履修登録者がいたのですから、仕方がないかもしれません。
真剣みに欠けた学生には、意匠と商標との違いなんて大したことではないのでしょうし、
そんな学生は底辺の一部だ、とあきらめる、というのも一つの手ですが。
(2017年8月作成)