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バカ話の楽しさの正体を考えた(2/2)

一刀両断にされたA氏は、シュンとなることもなく、

じゃあ、こういう場合はどうなんだ? ああいうニュースがあったじゃないか

と思い付くままに、いろいろな疑問を投げてきました。
そうした疑問が、ことごとくマスコミによる誤った情報を源とした話で、
(更にA氏が勝手な解釈を盛り込んでいて)だんだん腹が立ってきました。

_  Aさんに罪はないのですが、マスコミは知的財産のことを
_  ろくろく分かっていないのに、おもしろおかしく記事を書いてます。

と、またまた事例を挙げ、話を続けざるを得ませんでした。
しまいには、鞄の中に入っていたパソコンを起動させ、
大学の授業で使った資料まで見せながら・・・

_  誤った情報で居酒屋談義をするのは、人生の無駄です

と言い切ってしまい、Sクンに再びたしなめられました。

熱くなりすぎて反省しながらの帰り道に考え始めたのは、

_  飲み会のバカ話の多くは、正しい知識がないが故の堂々巡りではないか

ということでした。
たまたま自分の専門領域に関わる話題だったから、

_ こんな話を続けていても建設的ではない

と思えたのだけれど、自分の知らない領域の話題となると、
きっと建設的ではないのかな、と・・・

ここまで考えて、ふと立ち止まる(というか眠りについた)。
起きてみて昨夜の記憶が呼び起こされ、また考えてみると、「いや、ちょっと違うぞ!」と。
居酒屋とはいえ、「あれ変だな、ちょっと調べてみよう」と思ってスマートフォンで検索する、
ということくらい、できるはず。
正しい情報に行き着く(正しいと思われる情報を選択する)という力があれば、
建設的ではない不毛な議論を止めることは、たいていできるのではないか?
疑問に思える教養、正しそうな情報を選択する教養、といった能力があれば
不毛な堂々巡りにならずに済むのでは?

いろいろ考えてしまいましたが、

_   呑んでいて楽しいバカ話、というのは、
_   調べてみようとも思わないような ナンセンスな話 であるべきなのかな、

と思った次第です。

(2018年12月作成)